歴史と風土

お山参詣(幟と稲穂)

津軽の風土と文化

慶長16年(1611)津軽地方の城下町弘前が誕生し、弘前藩の政治、経済、文化の中心として発展し、明治22年市町村制(1市5町16村)により弘前市となった。幸い戦災をまぬがれ、藩政時代から受け継いだ歴史的な町並みと風情を残している。弘前公園を中心としたサクラ、周辺のりんご栽培、岩木山・岩木神社、禅林街、最勝院(五重塔)、津軽塗りなどの工芸品、明治の建築、津軽三味線、大石武学流庭園等、多くの観光資産に恵まれています。

  • 岩木山と岩木山神社大鳥居

    岩木山と岩木山神社大鳥居

  • 岩木山神社本殿

    岩木山神社本殿

  • お山参詣宵山(よいやま) 岩木山神社への大旗奉納

    お山参詣宵山(よいやま) 岩木山神社への大旗奉納

  • お山参詣朔日山(ついたちやま) 岩木山頂上でのご来光

    お山参詣朔日山(ついたちやま) 岩木山頂上でのご来光

弘前市内の四季のまつり

  • 弘前城さくらまつり

    弘前城さくらまつり4月下旬〜5月上旬

    津軽の人は、弘前公園の桜まつりが大好きです。街の人も農家の人も、「花より団子」状態にになり、重箱に詰めた料理を食べ、酒を飲み、踊り、三味線に合わせて歌っていた。子どもはガサエビ(シャコ)を食べ、木下サーカスの芸に興奮し、家族や仲間の動的な祭り的要素が強く、まさにフィジカル・ディスタンス0mのまつりです。
    ここ2~3年、コロナウイルスによる感染症の対策として、フィジカル・ディスタンス2m以上の桜まつりとなりました。つまり、人と人の間に一定の距離をとりながら、静かに園内を散策しながら花を愛でるという桜鑑賞的要素が強くなっています。
    弘前公園の桜は、花だけではなく、枝振りがよく、見上げれれば、花の隙間からみえる青空が美しく、まさに樹芸が見事です。一方、人の世話から解放され、剪定を必要としない、自然に帰された自由に伸びた松緑も見逃せない。桜と松の共演が弘前ならでは美しさです。

  • 弘前ねぷたまつり

    弘前ねぷたまつり8月1日〜7日

    ねぷたは扇形で、美しくみえるバランスが決まっているので、同じ大きさであれば、複数年使用可能で、製作費用が安価です。ねぷた正面の鏡絵に武者絵、裏面には美人画が描かれている。町会や同好会の組織が主体になっています。日が暮れ、やや抑えた照明の中に消えていくねぷたは野外の動く芸術作品といってよい。弘前人はこのねぷたをみて真夏を越えたことを実感する。また、ねぷたを先導するリーダーの「ヤーヤドー」という夜空に響く出陣のかけ声は身に沁みるのです。

  • 弘前城菊と紅葉まつり

    弘前城菊と紅葉まつり10月下旬〜11月上旬

    秋の弘前公園は燃えるような1,000本のモミジ、赤やオレンジに染まった2,600本の桜、黄金色に輝くイチョウによって鮮やかに彩られます。まつりは弘前公園内の弘前城植物園を主会場に行われ、豪華絢爛な菊人形、動物などをかたどった菊のトピアリー、丹精込めて育てられた香り高い菊花が見事に咲き競うさまは、古城とあいまって、深まる秋の繊細な美しさを感じさせます。

  • 弘前城雪燈籠まつり

    弘前城雪燈籠まつり2月10日〜14日

    北国の冬を楽しむために昭和52年(1977)から行われている、市民手作りのまつりです。弘前公園が大小約150基の雪燈籠や雪像、光を灯した約300基のミニかまくらで飾られます。歴史的建造物をかたどった大雪像や大きな雪のすべり台は、雪国ならではの楽しみ。純白の雪に覆い尽くされる厳冬期、ライトアップされた天守と老松が夜闇に浮かぶ光景は幻想的です。

津軽の文化・工芸

  • 津軽のこぎん刺し

    丹鶴庵の敷地の斜面に「苧麻・からむし」生えている。麻布を作っていたころの名残です。弘前藩の指導により、農民は麻の着用をされていたのです。この地域の厳しい冬の寒さに対処するため、麻布に綿糸を密に刺し、お洒落な幾何学的模様をつけたのが「こぎん刺し」です。江戸から明治につくられたものは古作こぎんとして高く評価されています。5~6歳ころに母親から手ほどきを受け、15~16歳には自分使用と将来夫となる男性の晴れ着を刺せれば一人前といわれた。
    こぎんの製作にとられる膨大な時間、持続を可能にする精神性など、日が昇り、暮れるまで働いた時代にあって、どこから生み出されたのだろうか。

  • 津軽塗り

    パリ万博に出品したときに、生産地を津軽としたことから、以後「津軽塗り」となったといわれる。「馬鹿塗り」ともいわれるように、ヒバ木地に漆を塗ってはそれを研ぎ、また塗っては研ぎを繰り返し、納得するまで仕上げる職人魂が見事に表現されています。

  • 津軽三味線

    津軽三味線は、この地域の冷害、貧困から生まれた創造物であると思う。偶然ですが、いま「高橋竹山、寒撥1971年RAB製作」がで放映されています。このTVをみて、このように確信したところです。昭和の初期に盲目男性が生きていく道は本当に狭い。
    子どものころ、ときどき「ホイド、物乞い」が家の前に立って、三味線を弾いているのを見かけた。これは「門付け」といわれるが、親からは、ホイドが来たら、首に掛けた袋にお米を入れてあげなさいと言われていた。子どもである私にも頭を下げたのが印象的であった。このTV放映中、竹山さんは、何度も「津軽の雪、冷たい、吹雪、風」を繰り返していた。めぐ(めくら)などと汚い言葉をかけられても耐えるしかなかった。
    北海道のニシン場で、自分より苦労している若者に出会ったとき、自分はまだ足りないと自覚し心境が変わった。苦難を越えて歓喜が生みだされた瞬間であったと思える。